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ハンバーグステーキとポタージュ

哲学的な想像や
脳内宇宙に飛び交う思考の星くず
全部吸引機で吸い取って
パズルのようにピタリとはめ込めたら
ちょっとやそっとの出来事ぐらいで
動じない鋼の心になるだろうか?

子供の頃食べた 近所の洋食屋さんで
いつも同じメニュー 特別な日だけ
ハンバーグステーキとポタージュスープ
鉄板の上でジュウジュウと
焼けて行く記憶の音も
あれがあの頃 一番大切な時間だったと
今 気づく

過去の扉が こっそり開くのは
明日からもっと強い自分になれる証
なんだろうか?

行きつけだった店がなくなり 
いつもの顔ぶれも見なくなる
大きな窓から落ちていた木漏れ日は
今はもう コンクリートの壁に
閉じ込められてしまった

悲しんではいけない
もう 新しい道へ 一歩足を踏み入れた
もっと強い自分になれる証なんだから

ハンバーグステーキとポタージュの香りが
ずっと 勇気をくれるはず
台風が来ると思い出す祖母の話

 今年もまた台風の季節がやってきた。
「台風上陸」と聞くと思い出す。私の祖母の話。

 私がまだ10歳くらいだったかの頃、祖母は桐箪笥からおもむろに出して来た、小さな紙の切れ端を私に見せ、
「これがばあちゃんで、おぶってるのがおばちゃん。横のランニング着てるのがおっちゃん。」
そこには、まだ若かった頃の祖母と子供だった叔父叔母が着衣も乱れ、ずぶ濡れ姿で写っていた新聞の記事だった。
祖母は続けた。
「ジェーン台風ってゆーて、戦後復興途中でまだ生活もままならん時に、大阪も大被害にあってな、淀川も欠壊して、家とは言えんあばら屋も皆流されて、もの凄かったんや。」
当時、川の辺に皆仮住まいを建て生活していた。家が崩れそうだったので、祖母はまだ3歳だった叔母をおぶり、叔父と逃げようと思った時に、川の濁流に投げ出され、必死の思いで流れて来る板になんとか掴まり、助けを呼んだそうだ。

 昭和25年(1950)9月3日。大型台風ジェーンは、四国を通過し阪神付近に上陸、金沢付近から日本海に抜けた。京阪神を中心に使者336人、被害者50万人、倒壊家屋1万5千戸の被害が出た。終戦後、台風、高潮、豪雨等は主戦後からひと月、9月18日の枕崎台風以降、昭和30年までに十数回を数えた。戦災復興途上で建物が弱小であった事等で、大きな被害をもたらした。(大阪市役所サイトより抜粋)

 自分一人行きて行くのが精一杯だった時期で、川の周りに人は居たものの、祖母の声も届かず、川を流れて来る家財道具や使えるものを、難を逃れた人たちが拾い集めていたそうだ。
 叫んでも叫んでも誰も気づいてくれない。どんどんその声も力尽きそうになる。そのうち、おぶっていた小さな女の子(叔母)が一緒になって、助けて!と叫びだした。ようやく気づいた人たちが、大勢で寄って集って、無事助け出してくれたのだという。

 祖母の話を聞いてから、まだ小学生だった私は、台風が来るととても怖くて夜も眠れなかった。台風だけではない。地震も雷も。自然の力には、人は逆らえない。でも、怯えてばかりはいられない。ただ、そうなった時の対処法を知っておく事は大切だと思った。
だから、学校の避難訓練は、私だけいつも真剣そのものだった。そんな子供時代。
 
 その新聞記事は貴重な歴史だと思う。が、祖母が亡くなった時に、父や叔父たちがどこへやってしまったかは、定かではない。



(東北震災からもう半年過ぎた。まだまだ手付かずな場所が沢山あるそうです。早くどなたも安心して普段通りの生活が出来ます様に。。。)
生は果物だけにして

もう時効だから言える話を。。。


それは高一の夏休み。
クラブ(器械体操部)の夏期練があって、日曜日以外は学校での特訓。まだまだ筋トレに慣れず、辛い毎日だった。
そんなある日、チームメイトが、
「練習が終わってそのままうちに一泊して、次の日一緒にクラブに行くってどう?」
と提案して来た。一言返事で了解し、親に承諾を貰って、わくわく気分で早速彼女の家へ。

彼女の家は大学の近くにあって、お母さんは大学生の合宿所の寮母さん?らしかった。家が山の手にあり、とにかく広い!そしていっぱい部屋があって、合宿が始まると油ギッシュな(失礼;)大学の兄ちゃんがいっぱい来るらしい。。。(当時のウブな私には耐えられない話だが;)
料理上手なおばさんは、私の為に腕を振るってくれた。しかしその日のメニューに、食べ慣れ無いものが。。。
鶏と帆立の貝柱のさしみ。
初めて口にするものだけに、少し抵抗はあったものの、我が家のしきたりで、

「出された物は残すべからず」

だったので、恐る恐る口に入れたら、これがまた美味しかった。まだ痩せっぽっちで、食が細かった私だが、結構食べた記憶がある。しかし、これが仇となった。
食べ終えて1〜2時間経って、徐々に腹痛が強くなってくる。なんだ、なんだ、今までなかった痛み!何が私の中で起こったのか判らない。脂汗が出て七転八倒☆
苦しむ私に慌てた友人はおばさんを呼びに行き、私に正露丸を飲ませた。
「鶏肉が当たったんかなー。」
ちょっと沈んだおばさんの声に、私は申し訳くなって一瞬痛みが和らぎ、
「大丈夫です。すぐ良くなりますから。」
と、ぎこちなすぎる笑顔で応えた。
その後は、気を失った様に眠ってしまったので、記憶が無いが、次の日には何とか痛みも治まり、朝には普通に朝食も頂いた。おばさんにはそれはそれは丁寧にお礼を言って、若干微熱はあったものの学校へ向かった。
しかし、下腹部に力が入らずクラブを休んだ事は言うまでもないが。。。

それ依頼、鶏肉に関わらず肉を調理する時は、異常に慎重である。
生肉はやっぱり食えん。
 
受け継ぐ

この木のへらは、お義母さんから受け継いだもののひとつ。

結婚後1年くらい同居していた。今だから言えるけど、家が傾きかけていた時に、嫁ぐ事になった私を、とてもとても深い愛情で包んでくれたのは、誰よりもお義母さんだった。

「早くうちにおいで(家族になりにきて)」

私が遊びに行く度に、別れ際にそう言って見送ってくれていた。 

お義母さんは里親に育てられ、「自分の家族」というものに、強い理想を描いて過ごしてきた。そんな人だから、できちゃった婚だったとはいえ、文句を言われるどころか、嫁と孫が一度にできたと、心底喜んで私を迎え入れてくれた。
だけど、複雑な家庭環境だったので、いろんな経緯で別居せざるをえなくなり、今の住居にいる次第で。。。
後から少しずつ自分の好きな物を揃えていきなさいと、お義母さんが愛用していたものを譲ってくれたものは沢山あって、それは”モノ”だけではなく、心の中にもそこかしこにある。


使い込まれたへらの真ん中がひび割れているけど、使い勝手が良く、今も愛用している。細身なので炒飯やジャムを作る時に適してる。

不思議なもんで、お義母さんが好きなテイストは私も好き。

メモ

人は信念と共の若く 疑惑と共に老ゆる
人は自信と共に若く 恐怖共に老ゆる
希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる


サミュエル・ウルマン/Youth(青春)より
毛もの 2

 1999年8月に我が家に仲間入りした小さな黒きモノ。名は『クレア』という。これでも女の子だ。きっかけは、このカワイさに負けたと言えば、誰もが納得するだろうと私は思っているのだが。

 この頃、近所のお気に入りのcafeでお茶をするのが楽しみになっていた私は、店内に貼ってあった「子犬貰って下さい」のポスターを見つけてしまった。ちいさな黒いのが4つも固まってる写真が愛くるしく、私の心をガッツリ鷲掴みにしてしまった。でも当時は子供も食べ盛りで先住犬のエルザがいた。我が家にもう1匹面倒見る余裕なんてあったっけ?と思う程の節約カツカツ生活だったので、目の毒だと思って見ない様にしていた。
しかし次にお店に言った時、まだ見つからないとの話。4匹のうち2匹が女の子で、男の子の方はすぐに飼い手が見つかったが、女の子の方はなかなか見つからずにいた。私はつい堪らず、言ってしまった。
「もし飼い手がなかったら引き取てもいいかな〜」
と。
早速その日のうちに、先方さんから貰って下さいの電話。ああ、やってしまった!どうしよう…。
そんな思いと裏腹に、私の頭の中では子犬と遊ぶ先住犬エルザの姿を想像していた。子犬なんて会ってしまったら最後。可愛さに負けてしまうに決まってる。

 そう。私は負けてしまった。晴れてクレアは我が家の子として仲間入りを果たしたのだ。今思い返せば、クレアの「カワイイ攻撃」の原点は、この初対面の時から始まっていたのかも知れない。

あるのかないのか?くらいの尻尾。

 
生後40週目。鼻もまだ短くて耳も垂れてる。

娘とのツーショット。まるでぬいぐるみではないか…。


 このカワイイを武器に、クレアはすくすくと育った。ある時は、母代わりのエルザから食後のミルクを貰い(厳密にはエルザがわざわざ残していた)、ある時は、隣のおじちゃんからジャーキーを貰い(庭にいる時、おじちゃんを甘えた声で呼ぶ)、またある時は、何か食べてる時に誰かの「落とした!」の声に素早く反応し、尾尻を振りまくり貰い、そして来客があったならば、一早く玄関にお出迎えする等々。
神経質なエルザとは違い、「人間様〜♪」な、正に犬、これぞ犬、な、これら全ての行動は、彼女なりの生き残り戦略である。
中でも「お尻上げます!」攻撃は、最大の効果を発揮しているそうな。

 現在10歳。人間ではもうすっかりオバハン。なのに、衰える事の知らないこの愛くるしさ(流行らないブリッ子)は、永遠に朽ちる事ないだろう。

これからも

I am not giving up !!!

 


生きてる限り。。。!
他にもある癖?
『知らず知らずに集まるもの』

 くるくるしなくてゴメンナサイ。
銀河高原ビールという名前のビールは、中身も外側も好き。

 ジャムやお酒の空き瓶、デザインの可愛いラベル、可愛い包装紙や紙袋、飴の包み紙、お菓子の缶、まだまだ挙げたら切りがない程。私には「捨てられないもの」が沢山ある。そんなに溜め込んでどうする?と旦那に言われた事があったが、これはもうある種の"趣味"なので仕方が無い。しかもちゃんと管理されていたら、なんの問題も無いんじゃないか?と言い返してやった。(むしろ、アンタが溜め込んでるプラモだとかの方が、大きくて置き場所に困ってますが?と言いたい。言ってるが。。。)
しかし、どんどん増え続けるので、どんどん使う。これは鉄則で、そうでもしないとほんとに恐ろしい事になる。


 『楽しみ方それぞれ』

 例えば、もうデザインが変わってしまったが、クールミントガムの包み紙。あれはかなりヤバイ代物。だって、ペンギンがあんなに並んじゃってるんだよ。どーしてくれようか?と、ズラズラと並べてみたら、ものすごく素敵なプリント柄になってしまった。これは、額に入れて楽しんでいたもの。

(デザイン改前の方が、色もペンギンの感じも良かったのになー。)

 このままコピーしたら小さいながらも、ラッピングペーパーや封筒なんかにも変身。なかなか洒落ている。以前、面白い記事を某雑誌でみつけた。ジュースのブリックパックでトートバッグを作ってあった。なるほど!と思った。ただ、ちょっと手間がかかるけど。
 お菓子の箱なんかは、丈夫な物が多いので、とっておいた可愛い包装紙を貼り紙粘土用のニスを塗れば、立派な化粧箱に変わる。細々したものを閉まっておいたり、友人になにかプレザントする時にも活躍してくれる。

 こういった事をもう何十年もやってるけど、これもまた「癖」なのかはたまた「フェチ」なのか?たぶん、来世でもここだけは変わらないかも知れないね(笑)


必要なのに
 いつも出掛ける時には、必ずメモ帳を持ち歩いていたのに、近頃忘れがち。 
気づいたちょっとした事やヒラメキを書き留めておくのに、ここのところは、ずっと、自分の頭の中に収まったまんま。
そろそろ出して整理してやらないと、あちらとこちらがゴチャゴチャになって、大変な事になってしまう。

仕方なく携帯で文章をメモるけど、それだけでは、全く持って意味が無いし、ヒントにもならない。帰宅してから慌てて記録しても、全然別の物となってしまって、あまり役に立たない。

 だからか、ついつい目についた店で帳面を買ってしまい、どんどん増えて行く。
しかも、それをまた、切り貼りする様に繋げていく事の億劫さ。
これはなかなか直せない「癖」みたいなもんなのかな?

今年まだ始まったばかりなのに、既に2冊。。。
自分アレンジでデコしたメモ帳。

昨日は風が強かった。
そのせいで、雲の流れの速い事。

大きな塊が崩れたと思ったら、別のと絡み合い、もつれ、またひとつになったかと思えば千切れる。生き物みたいに。
ずっと見いてると、雲が動いているのか、自分が動いているのか判らなくなり錯覚を起こして、なんだか乗り物酔いみたいになってきた。

こんな感じの空の散歩を、随分長い事するのを忘れてた。時々すると、気分の優れない日でもスッキリする。 「体の中の大掃除」と私は呼んでる。
最近知ったけど、脳医学的にもいいんだってね。

一年に一度じゃ少ないけど、時々でもたまにでも、やってあげないとまたへたってしまうから。


『地球上のすべてを見てみたい』

って思うのは、生きてる証拠で、きっと自分が思ってる以上にシアワセであるからなんだと思う。
ほんの些細な事も、見落とさない様に、自分を量るバロメーターで、一人一人が持っている、大切な秤。日常の中で、少しずつずれが生じてしまうから、時々見直してあげないといけないよね。